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【若き日の家康公の足跡をめぐる小旅行】番外編では、家康公の三大危機のひとつ「三河一向一揆」にまつわるスポットを紹介します。

『三河一向一揆始まりの寺 上宮寺』

  • 上宮寺_現在の本堂

    上宮寺_現在の本堂

家康公の三大危機といわれるのは「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」です。
今回私たちは、中でも岡崎が戦の場となった「三河一向一揆」にまつわるお寺に行き、ご住職にお話を伺いました。

まずは三河一向一揆始まりの寺と云われる上宮寺(じょうぐうじ)。
参拝に行かれるとまず驚くのは、境内正面にある青いドームの様にも見える本堂でしょう。
以前は木造の立派な建物でしたが1988年に火事で焼けてしまい、仏教の源であるインドのお寺をモチーフに、21世紀を見据えた建物として再建されたそうです。
ご住職によると上宮寺は、聖徳太子が仏教を広めようと全国を巡行された際に開山したという由緒あるお寺で、戦国時代には税としてお米を寺に納めるさせる権利を持ち、三河と尾張の境目に位置することから特に重要で力のあるお寺であったそうです。
 
家康公が岡崎城主となって間もない永禄5年、三河掌握のための戦の準備に足りない兵糧を、寺に納められた米から取り立てようと考えていました。しかし、早まった家臣が、城主であっても勝手に踏み入ることができないという「守護使不入」の約束を破り、寺に押し入り米を奪ってしまいました。それに怒った近隣の寺やその信徒が家康公に反発して一向一揆が勃発したと言われています。特に上宮寺は桶狭間の戦い以前に今川家とのつながりが濃く、そのことも家康公に強く反発した要因の一つでもあったようです。

三河一向一揆で家康公を最も苦しめたのは、家臣らの裏切りでした。
家康公の家臣には浄土真宗の信徒が多くあり、信仰と忠義の狭間で父と子や夫婦兄弟などで敵味方に分かれてしまうという悲惨なことになりました。
結局、徳川方も一揆方もあまり強く攻めることができず、半年ほどで和睦をする形で終結しました。徳川方からの和睦内容は、「元通り」というものでした。
※「元通り」の解釈はいくつかあるようです。

当時の上宮寺のご住職であった34代勝祐(しょうゆう)とその息子信祐(しんゆう)は、三河退去後に長島の一向一揆に参戦して戦いましたが織田信長により平定され、敗れた二人は切腹して非業の死を遂げました。
その後、家康公の乳母の働きかけにより上宮寺は許され復興し今に至っています。

私たちはご住職のお話を伺い、当時の人々の苦悩や信仰を守る強い心を感じるとともに、若き家康公がどのような想いで家臣らと戦ったのかなど、思いを巡らせることができました。

上宮時はJR西岡崎駅から南へ歩いて5分ほどとアクセスも良く、境内にある宝物殿には復興後に当時の様子を描いた書などがあり、事前連絡と500円のご志納で、
ご住職のご案内と合わせ拝観することもできます。
皆さまも、上宮寺に参拝し信仰と忠誠の狭間で揺れ動いた三河の人々の思いを静かに感じてみてはいかがでしょうか。

『"赦しの心"を学ぶ 浄珠院』

JR岡崎駅から西へ歩いて10分ほどのところにある「浄珠院(じょうじゅいん/じょうしゅいん)」は、“三河一向一揆 和解の場”として知られています。

三河一向一揆の制圧に苦慮していた徳川家康公は、上和田(かみわだ)に住む大久保一党が一揆と対峙し激戦となった際に、この寺院に本陣を置いて一揆制圧に向けて指揮をとりました。しかし、戦いが長期化するにつれて疲弊した双方は、和議によって和睦することを決意します。

蜂谷半之丞(はちやはんのじょう*)たち一向宗の武士たちと、家康公をはじめとする三河武士たちが、和睦の交渉をした場所こそ、この浄珠院の太子堂といわれています。
家康公を中心とした松平・徳川家の歴史と、大久保家歴代の事績がつづられた「三河物語」によると、この際に一揆側は、3つの条件を提示したそう。
(1)家臣たちの謀反を許すことと
(2)寺を以前のままに置いておくこと
(3)一揆の首謀者を赦免とすること
*)本名:蜂谷貞次(はちやさだつぐ)は、通称の半之丞として知られる。

家康公はこれを承諾し、対立した家臣団の誰一人として断罪されることはなく、浄珠院の聖徳太子の像の前で和睦が成りました。
三河一向一揆は、家康公の三大危機のひとつとして語り継がれる一方で、領内の支配と家臣団の結束を飛躍的に高めた戦いと位置づけられています。
歴史的にも非常に重要な場所といえます。

私たちは今回特別に、本堂と太子堂の中に入らせていたいただきました。
本堂には祖父清康公、父広忠公のほか徳川歴代将軍の御位牌があり、太子堂にはその和解を見届けたとされる聖徳太子の像が残されています。
その像は後にお寺の火事で少し黒く焼けしまいましたが、今もなお太子堂の中で丁重に祀られています。
まるで平和な世を見守り続けてくださっているように感じました。

その前に立つと、家康公と家臣団、一向宗の武士たちが和議を結んだ場所に現代の自分たちもいると思え、深い歴史を感じました。

また境内にあるイチョウの木(岡崎市の銘木に指定)は見事なもので、一面が黄色に染まり大変美しい景色を見せてくれます。

徳川三百年の礎を築いた平和の象徴の地。
ここから家康公と三河家臣団の躍進は始まりました。
 

前編・後編・番外編をとおして。

最後まで読んでくださりありがとうございます。
今回の企画を通して、私たちは家康公ゆかりの岡崎の寺院仏閣について非常に多くの知識を身につけることができました。
この記事を読んでいただいた皆様にも、家康公と岡崎の各所の深いつながりを知っていただけたら幸いです。
岡崎市には数多くの観光スポットがありますが、私たちの投稿が皆さまの岡崎巡りのヒントになれば嬉しいです。
最後になりましたが、今回取材に協力してくださった皆さま、この場をを借りて感謝申し上げます。

2023観光大使おかざき
平岩里菜 塩沢柚衣

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